「王子の狐の行列」その王子狐民話の移り変り

王子の白きつねKotKotのつぶやき...2011.9.11...twitter
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プロフィール
王子の白きつねkotkot ( = @33koku )
東京都北区王子
保有芸能 @王子田楽躍り A王子狐踊り B王子ささらばやし。
子きつね

伝承における人々の記憶・・・東京・北区・王子の場合

@人の記憶はほとんど江戸時代の中頃からのことが多いと思う。
もっと遡ると、文書(もんじょ)自体残るのは少ないから記録に乏しい。
つまりそんな古いことは解らない、というのが普通。
それに加え、有った古い文書(もんじょ)が記載間違えだってある。

A 歴史文書が正しいと断じて研究したら大間違い。
とんでもないことを伝えることだってある。
1732年に江戸の地誌として広まった著名な「江戸砂子(すなご)」というのがある。
これが王子田楽について誤った解説をし、次から次と時代が下がって引用されて 誤まった紹介がされた。

Bなんと、この誤りを私が昭和62年に発見するまで、明治、大正、昭和の初頭へと、 どなたも引用してきて誤りに気付けなかった。
学問というには恥ずかしい素人だってこういうことに気づくことがある。
悲しいかな素人には影響力がそなわっていない。だから世間との戦いめく。

Cことココ王子に限ってさえ、これ以外にもデッカイ歴史の誤りがある。
それを言う前に、「王子の民話伝承上の狐が大晦日に王子稲荷に参詣する」というのがある。
狐が大晦日に参詣するかを議論する人はいないでしょう。
狐が参詣はしないからそれは正しい歴史では無い?

D民話はウソだから子供に教えるべきではない?
 笑っていらっしゃる方、続けて読んでください。
狐が大晦日に王子稲荷に参詣するとして進めるのがここの話です。 当地では、王子の狐が関八州から集まる、というのが広まっている伝承です。

この「関八州」というのが実は誤りなのです。

E1790年頃の寛政の改革の時代に寺社奉行松平輝和のもと役人が
王子稲荷に思想統制にやってきて 老中松平定信に報告書を提出。
「東国惣司ト称シ候濫觴」とあった。
前後の意味するところは「王子稲荷がそもそも東国惣司と称していることが この問題の始まりなのでございます。」

F「東国」とは琵琶湖の東の関ヶ原から東、陸奥の国まで含めた三十三ケ国をさす。
王子稲荷がそれら稲荷社の総司と称していたことの記録である。
調べると王子稲荷は平安時代からこのように自らを伝えてきていたことが分かった。
決して江戸時代からの伝承などでは無い。

G江戸時代からの伝承では無いにも関わらず江戸幕府は伝承の分断をはかり、 以降は王子の民話を幕府の為政の隸(しもべ)にしたのだ。
以降人々は王子の狐民話は江戸文化のものとして喜ぶようになる。
つまり「王子の狐は関八州から集まる」と。幕府為政の勝利であった。

H安藤広重が「王子装束ゑの木・大晦日の狐火」で王子の狐の版画を出したのは 王子の狐民話をそれまでの「東国三十三ケ国」ではなく「関八州」からの狐集合とのみ 許した寛政の改革から60年後です。
人々はこれ以降いっそう江戸文化の中の王子民話との認識を喜こんで伝えていく。

I王子稲荷社にご参詣の機にはぜひ正門の右に立つ石柱を良くご覧下さい。
「康平年中、源 頼義 奥州追討のみぎり、深く当社を信仰し、関東稲荷総司と崇む」 との平安時代の事が刻まれてあります。
ここに関東とは平安時代の言葉として意味するのは東国のことです。

J現代に伝わる文化伝承は人それぞれに異なった解釈も面白いでしょう。
しかし、本家本元の王子稲荷社が伝える伝承を正しく受け止めての上で文化活動をすることは、 ふるさと王子の伝承をこども等を通じて後世に豊かに伝えることであり、 大人の大きな役目だと思います。

追記:
北区はこの伝承を町に掲示する場合は「関東は現在の関東の範囲とは異なります」と 添え書きしなければいけない。いままでそのような配慮はなされていないから、人々が王子の 狐民話の奥深い理解に到達できない。早急の改善を求めます。白きつねKotKot... 2011.9.11


参照
@ 王子の狐の歴史・東国三十三ケ国の狐が王子に集合

A 狐の行列。王子の狐物語。 正しい王子の歴史のために
―― 東国三十三ケ国の狐が王子に集合 ――